世界を旅して、商社で働き、カレー屋で失敗し、メキシコで起業した20代を振り返る

ここメキシコで30歳を迎えました。世界で一番好きな町、グアナファトで20代を振り返っています。こうして健康を保ちながら、やりたいことに挑戦する日々が送れていることはひとえに家族、友人をはじめ世界中で出会った人達、刺激と学びをくれた先輩方、そして何よりEncounterに関わってくれている仲間達のお陰です。当たり前な前置き過ぎるからと言って、ページを閉じないでくださいね。けど、本当にそのように思います。沢山の人に支えられて来ました。けど、辛い時、踏ん張れた自分も褒めたいしもっと褒められたいです。

 

Encounterのメキシコ支社本店のある、世界遺産の町 グアナファト

 

 

20代を思い返すと、煌びやかな成功は何一つありませんでしたが何の後悔もない充実した日々と特別な経験、人生に使命を与えてくれた景色、挫折、そして数え切れない出逢いがありました。30代の突入は自分にとって大きな節目なので、ゆっくりと自分の20代を振り返ってみたいと思います。7000字を超える大作ですが、僕に興味がある人は是非読んで下さい。ない人もちょっと読んでほしい。

 

20歳~海外との出会い~  

 

アメリカ合衆国はカリフォルニア州に在する「ヨセミテ国立公園」で、J1ビザ(短期就労ビザ)を取って公園内のピザ屋で2ヶ月の間働きました。セネガル人オーナーの外国人サッカーチームのGKコーチを務めたことがきっかけで、英語を学びたい、世界を知りたいと思って出発しました。

 

景色が最高なヨセミテ公園のハーフドームより

同僚のエステファちゃんと。

 

「従業員村」と呼ばれる、出稼ぎに来てる人達が泊まるエリアの「73番」の小屋が僕の住処で、隣のベッドにはエクアドル人の見た目は完全にターザンであるファビアンが住んでいました。彼の紹介で中南米の各国から来ている人達と知り合い、仕事の後には夜な夜な宴会をして、休みの日にはハイキングする日々を送りました。宴会の場や山中を歩く中で、世界中の人々と自分たちの国やこれまでの人生、そして将来の夢について語り合いました。エクアドル人の友人に言われた「You are very lucky becase you are Japanese. You can try whatever you want」この言葉で、「自分は世界規模で見れば、圧倒的に恵まれた存在」であることを自覚します。アメリカでの日々を通じて、「世界をもっと知りたい」と強く感じた僕は、当時はメジャーではなかった世界一周の旅を決意します。

 

21歳~「不可能の幅を狭める為」に世界一周へ~  

 

アメリカから帰国後、アルバイトを4,5つほど掛け持ちして大学には殆ど通わず貯金する日々を送って、2009年9月に90万円を持って1年の旅に出ます。インドでは孤児院で1ヶ月ほどボランティアをし、ネパールでは2週間の山登りを、フィンランドのカジノで大金を失い、ロンドンで麻酔薬の実験台となり、スペインでは水彩画家としてデビューし、モロッコでは裁判して輪投げ屋をモロッコ人のハッサンと切り盛りし、中東では宗教について考えさせられ、アルゼンチンの路上で靴を売り、キャッシュカードを失って一文無しの状況を経て、ペルーとボリビアでは仲間と旅する楽しさと誰かと想いを共有できることに幸せを覚え、エクアドルではアメリカ時代の仲間と再会し、コロンビアでは寿司を売って生き延びた、そんな旅でした。出発前に想像していたこと、ゼロ。想像していたことが起きるより、想定外に起きる事が楽しさなんだなとこの経験を持って体感しました。

 

 

輪投げ屋時代の僕。

ネパールで山登り時代。5500Mまで。

コロンビアで寿司売り時代

旅先で出会った仲間たちとマチュピチュへ

ヨセミテ公園で出会ったエクアドル人の友人たちと再会

 

 

高校時代、サッカーを通じて大きく挫折した僕は「自分以外の人は出来ない何かに挑戦したい」と思い続け、アメリカで見つけた「世界」が挑戦の舞台となったことで、「世界一周」が当時の自分が実現すべき対象になっていました。当時、自分の「不可能の幅を狭めたい」という思いが僕を突き動かせ、無謀にも見える旅を1年を通じてしてきました。何でこんな無謀な旅が出来るんだろう、と考えた僕が帰国後に辿り着いた答えは「帰ってこれる場所や人が存在したから」でした。これが「世界中で居場所づくりをしたい」と思った僕の原体験です。←旅にでた詳細のblogはこちらを!

 

そして中南米の地に訪れて感じた、現地の多様な文化、陽気で愛に溢れた人々、圧倒的な自然を通じて「中南米と日本の架け橋となりたい」と思ったこと。「危険」「マフィア」「ドラッグ」のイメージが先行する日本の中南米に対する「誤解」をビジネスを通じて変えていきたい。この経験や想いで、今もメキシコで僕はビジネスをしています。

 

モロッコでの輪投げ、アルゼンチンでの靴売り、コロンビアでの寿司売りなど、言葉の通じない、何の知見もない土地で商いを通じてお金を得る。規模は小さくとも、自分で商売をする愉しさを感じた僕は、生涯経営者だった祖父の存在も相まって将来起業することを決意しながらも、中南米と関わるビジネスがしたいと思って総合商社で働くことを目指し、帰国後就職活動をすることになります。

 

22-23歳~メキシコとキューバ、就職活動~ 

 

無事、幾つかの総合商社と商社から内定を貰い、古巣の双日株式会社へ入社することを決意しながらも、再度アルバイトをしまくって貯金をし、

大学卒業前にキューバとメキシコに4ヶ月の間滞在することになります。
キューバではコンガを叩きながら、ラテンジャズとサルサに触れる日々を2ヶ月間送りました。キューバの家族とも云えるキューバ人たちと過ごした2ヶ月間、音楽というアートにどっぷり浸かった日々は僕の感性に大きな影響を与えました。キューバの後、メキシコに渡り2011年の年末はウアウトラ・デ・ヒメネスというビートルズが「Let it be」を作曲したことが噂される秘境でシャーマンの洗礼を受けました(この話はディープ過ぎるのでここでは書きません 笑)。

 

コンガとサックスの先生と。

メキシコはオアハカで一緒に音楽していたメンバーと。

 

そして導かれるようにグアナファトへ到着。街自体が世界遺産であるグアナファトの町並みに心を奪われ、グアナファト大学の自習室でメキシコ人に日本語を教えながら、スペイン語を教える日々を送っていると、恋に落ちて沈没することに。メキシコから日本への帰国便のチケットを捨て、双日の内定者研修、配属面談も行わずにグアナファトで太鼓を叩きながら小銭を稼ぐ日々を送りました。

 

「中南米で仕事出来なかった辞めます!」と啖呵を切りつつ、配属面談にも現れない不良内定者だった僕でしたが、結局入社1週間前にメキシコから帰国し、太鼓二つを抱えながら双日本社へ向かって人事の方々に赤坂にて牛丼を奢ってもらったことは色褪せない思い出です。(大変失礼しました)

 

 

  

 

24-25歳~双日での日々とホームレスカレー~ 

 

無事双日株式会社に入社後、自動車第一部に配属され、念願の中南米向けの事業を担当することになりました。先輩にも超絶恵まれ、エクセルも使えない、メールも書けない、朝起きれないという、どうしようもない僕に仕事のイロハを叩き込んでくれた方々にはいまでも心から感謝しています。満員電車が大嫌いで、酒が殆ど飲めなかった僕は毎晩のように潰れてたので、朝は定時に出社出来ず、よく体調を崩して会社も休んでいました。それでも、お世話になった先輩が教えてくれた「Business is Love」の言葉、「お客さんをお客さんと思うな。もっと寄り添って、自分の家族のように、友人のように接して、問題を解決してあげるのが俺らの仕事。つまりはBusiness is Loveである」という教えが、いまのEncounterの行動指針に繋がり、僕が仕事する上で最も大切にしている想いです。入社2年目のほぼ無知な新米社員ながら、新規案件にチャレンジさせてくれた当時の課長や上司の方々には頭が上がりません。出張で来日したパラグアイ人の取引先がメーカーのお偉いさんの前でプレゼンの準備をしておらず、即興で私が代打で英語でプレゼンしたり、マイアミで課長と新規案件のプレゼンをしたり、明らかにマフィアのボスなジャマイカ人に提案してみたり、ショーンポールと飲み明かして潰れて翌日の打ち合わせに参加できなかったり、パソコンを空港に忘れて「スティーブジョブスはPCを使わないから」と訳を分からないことを言って資料なしで海外でプレゼンしてみたり。放蕩息子感半端ないかつ破天荒な僕を見守って、育ててくれた双日の皆様、有難うございました。

 

カッコつけてる当時の少ない商社時代の写真@霞ヶ関

 

同時に、通称ホームレスカレーと呼ばれる僕の幼馴染の借金返済プロジェクトを立ち上げ(詳細はこちらを)、挑戦したのもこの頃です。2013年1月3日、忘れもしないこの日に実家の神戸に帰っていた僕に、彼が泣きじゃくりながら夜更けに電話をかけてきて、一緒に地元の山までドライブに行きました。詳細は書きませんが、劣悪な家族環境と祖父母の介護にこれ以上耐えられないし、借金も数百万円ある状況だった彼に「東京こいよ」と誘って、当時僕が住んでいた会社の寮で共同生活を始めました(本当はダメだけどね)。

 

料理が得意だった彼。僕はケータリングカーで、カレーの販売をしようと持ちかけました。瞬間風速的に売上を短期間で立てて、彼の借金を返済するために著名人の方々の協力を得て世間に認知してもらうことでこのプロジェクトの実現を目指します。ただ、何者でもない24歳の僕に人脈があるわけでもなく、これをきっかけにTwitterを通じて家入一真さん燃え殻さんを始めとした方々に出会うことになります。これがきっかけで、僕は今まで出会ったことのないような魅力的、かつ社会的に著名な人々に出会い、世界が急速に広がっていきました。

 

 

オープニングパーティを西麻布で行った時には、全国から友人が訪れてくれて200名近くの方々が足を運んでくれました。この頃、モロッコでの輪投げ屋の話や自分のこれからの話、これまでの話を聞いてくれた家入さんから「西側くんは、将来絶対成功するよ」といってもらえた事。何者でもなかった僕にチャンスを与え続けてくれた燃え殻さんからは「西側は生きる偏差値が高いね」といってもらえたことはいまでも人生の支えになっています。ちなみに、この御二方との出逢いがなければ、間違いなくいまの僕はいません。

 

西麻布でのカレー屋オープニングパーティ

 

数百万円、お金を借りていよいよケータリングカーを買って来週から開始しよう、と意気込んでいたある日、自宅に帰った時に机に置かれた一枚の紙。その日を機に、彼とは会っていません。安否もわからない。残ったのはだったぴろい自宅とカレーのための機材、そして宙ぶらりんとなったプロジェクトでした。この頃は心から辛くて、体力的にも精神的にも追い込まれていましたが、支えてくれた旧友や同僚に救われました。沢山の人に迷惑を掛けました。本当に申し訳ございませんでした。

 

 

26歳 ~ 起業そしてEncounter Shibuyaの立ち上げ~ 

 

ホームレスカレーのプロジェクトの消火活動を行った後、代官山のカレー屋を間借りして週末限定でバーを始めました。このままでは終われない、何かにチャレンジしたかった僕は平日を霞ヶ関で商社マンとして働きながら、週末を代官山のカレー屋で働くことになります。休みなく働き続けた日々の中で、「何のためにやってるの?」「疲れないの?」と多方から言われ続けましたが、自分にとっても誰かにとっても「居場所」となる場ができたことが、とてつもなく嬉しかった。その店の名前が「Encounter」で、いまの会社、店舗にも残っています。

 

間借りしていた代官山のカレー屋

 

ですがある日突然、間借りしていたカレー屋が廃業することになり週末限定のencounterも同時にクローズすることになりましたが、当時のメンバーで「自分達だけの店を作ろう」となって、渋谷にENcounter Shibuyaを立ち上げることになります。

 

ずっと夢見た「居場所づくり」の一歩となるENcounter Shibuya。これまでの人生で出会ってきた友人たちが内装DIYを手伝ってくれて、デザインを手伝ってくれて、2014年の夏に渋谷encounterが出来上がりました。その晩、現 取締役のシュンこと島田俊一郎にサプライズのケーキとEncounterのロゴ入りワインをプレゼンとされた時、不思議と涙が止まらなくなり、泣きじゃくりながら、「自分の人生をかけて、自分のやるべき仕事を最高の仲間としよう」と感じて、退職の旨を伝えました。

 

改装の日々

家入さんがOpening partyでDJしてくれました。笑

シュンが中心となり準備してくれたケーキ達。

今は社員となってメキシコにいるなんなちゃん。この頃はガッツリこんなに一緒に働くことになるとは思ってなかった。

 

 

渋谷のEncounterを経営しながら、幼馴染の山ちゃんとTokyo Divertidoを創業。「中南米と日本の架け橋となる」ことを理念として、メキシコでTV番組の配給事業をメインとして、メキシコと日本を行き来する日々が始まります。名刺に書かれた「代表取締役社長」の肩書き。当時は「社長になったんだ」とワクワクしながらも給料は月8万円。双日時代から比べると、極貧生活に突入します。30歳になったいまでも未熟ですが、この頃の僕は本当に何も知らない、経営知識ゼロの状態ながら、商社時代に子会社管理をしていたことで色んなことを分かった気でいました。

 

「空いてない宝箱」を探すような、ロマンを感じながらメキシコと日本を行き来する生活が始まりました。

 

27歳~Encounterの法人化とグアナファト進出~ 

 

Encounterを会社化し、株式会社Encounter Japanを創業。同時期にシュンがスペイン語知識ゼロの状態でメキシコにも初上陸しました。学生時代に訪れて、僕が最も好きな街グアナファトで、Encounterの二号店を立ち上げるために、渋谷Encounterのマネージャーのバトンを託してメキシコにきたのです。日が昇る前、グアナファトのシンボルとも言えるテアトロ劇場前で彼と再会した瞬間、鳥肌が立ったことを覚えています。「新しいことが始まるんだな」と、胸が踊りました。「世界遺産の街、グアナファトで宿泊施設と日本食レストランを作る」と意気込むものの、開業資金は手元になく、開業資金をクラウドファンディングを通じて行うことしました。結果、160名以上の人々が支援を。160万円以上の資金が集まったことで、紆余曲折、多分な苦労や事件もありながらも(笑)、2016年2月にHostal & Bar Encounter Guanajuatoが誕生します。

 

Encounter Guanajuato

 

 

開店してすぐ、僕は日本に出張しシュンとメキシコ人スタッフで営業を行うものの、メキシコ人スタッフが全員退職し、3階建ての広く、大きな店舗でシュン一人が働くという悍ましい状況に至りました。相当な苦労と辛い経験をシュンがしながらも、彼の人間性に引かれ、語学研修でグアナファトに滞在する商社マンや旅人達が手助けしてくれることになり、日々を乗り切っていました。

 

今はグアナファトの事務所ですが、昔はシュンの寝床でした。

 

 

Tokyo Divertidoとしては、念願のプロジェクトである「TV番組の配給を通じた訪日インバウンド」を実現し、日本国内でも多くのメディアに取り上げて頂きましたが結果は全く振るわず(涙)。メキシコ国内で、自分が社長として立ち上げるプロジェクトの難しさ、助言してくれる人がいないこと、日々無くなる口座残高に恐怖を覚えながら経営していました。

 

28歳~Encounterへの集中と広島との出逢い~ 

Tokyo DivertidoとEncounter Japanの二社を同時に経営することに限界を感じ、Encounter Japan一本に絞って、経営することを決断した年でした。また、羽田空港にOCHAWANを立ち上げ、Encounterとして三店舗目となる店舗を立ち上げた年でもあります。

 

会社を立ち上げた当初は、数十万円で悩んでいたのが数百万の悩みに変わり、Encounterに関わる人たちが増えたことなどで良く言われる「人」と「お金」についての悩みの量が増えました。僕は生まれ持って「楽天家」の才能があると思ってますが、流石にお金と人の問題は精神的に相当苦しみました。悩んでも解決策が生まれるわけではなく、手足を動かしながら頭を使ってどうにか生き延びた日々でした。

 

仕事では、広島県の産品をメキシコに輸出、卸売する事業を始めたことから、中小企業庁の補助事業である「ふるさとグローバルプロデューサー事業」のOJT受入先に拝命。日本の地方の魅力を海外に発信できる人材を増やすことを目的であるこのプロジェクトで、メキシコを舞台に研修を実施出来たことは自分たちにとって「日本とメキシコ」を拠点として日本のため、メキシコのために仕事をしていることを実感でき、また地方創生の分脈で新しい方々との出会いに満ちた、良きご縁かつ経験でした。

 

最高に美味しい、広島の地酒

メキシコ国内でイベント出店

山田彰 前大使にも参加頂いた展示会

前大統領のペーニャ氏との写真が全国紙に掲載!

 

この頃から会社のビジョンやミッションの重要性、社長としてすべき仕事を理解し始め、本や先輩経営者の方々との交流が増えました。また、メキシコでの「Encounter Japan」のプレゼンスが高まってきたことで仕事の幅も広がってきました。 これらの悩みと勉強、経験がいまの仕事に大きく役立っています。

 

29歳~悩み苦しみ、手応えを感じた一年~  

 

事業の拡大も実現しながら、正直苦しい1年でした。創業メンバーや古株のメンバーの退職、転職。ENcounter Shibuyaは開店当初の勢いと売上が減り、OCHAWANでは採用に悩み、増え続ける販管費と月々の支払に頭を悩ませ、メキシコ人と日本人のマネジメントの壁にぶつかり、創業当初の自信は陰るものの増幅し続ける責任と、当たり前ですが想像通り進まない苦難の日々。

SNSでは「資金調達のお知らせ」がタイムラインに流れ、知人が大規模なセミナーでピッチを行う。バブル状態なVCが領域を絞って若者に投資を続けるニュースをみて、「クソしょうもないわぼけ!どうせ起業家のビジョンもないくせに!」と机を叩きながらも、世の中の流れに沿った事業展開をせず、かつ舞台をメキシコと日本に置く僕たちを相手にしてくれるVCや銀行は皆無でした。

 

足下を見られることも増え、銀行には「メキシコと日本?笑」と笑われ相手にされず、財務や労務などのバックオフィスの不整備を外野から指摘され叱咤を受け、着金は遅れるのに他方からは支払の督促を受け、若さ故にナメられることも多々あった。今となれば、創業メンバーがいなくなることも、マネジメントで苦労することも、これらの出来事も会社の経営をしてれば皆通る道だったと振り返れば思うのですが、その沼にハマった時は本当に苦しかった。お金の工面に苦しみ、夢では宝くじが当たったり、謎の借金取りに追われることも多々ありました(笑)。精神的に不安定になりそうながらも、「社長の心が折れれば会社は終わる」ことを直感で理解していた僕は何があっても前を向き続けました。翻って、「社長の心が折れるまで会社は潰れない」ことも学びました。会社の成長と、社員や関わる皆がより楽しく働ける環境や会社作りに全力で挑むものの、逆に皆には苦しい思いをさせたり、プレッシャーを感じさせてしまって、創りたい世界とは逆の事象も起きてしまった昨年でした。

 

反面、メキシコの政府の方々や大企業の重役の方が「面白いね!」「素敵な取り組みをされてますね!」「Encounter Japanにはイケてるメンバーが集まってますね」「最近の若者と違いますね」と応援してくれることも増え、困難な状況かつ苦労しながらも、歯を食いしばってついて来てくれるEncounterの仲間の存在に助けられ、Encounterの更なる成長を期待してくれる会社や人が増えました。不思議なことに、辛い日々ばかりではなく、真面目に全力で働き、生きていると新しい出会いや再会、大規模プロジェクトの受注など、ポジティブなニュースや出来事が要所で起きる為、厳しい時期も乗り越えてきました。

今だから言える、神戸のスーパーマーケットでの修行時代。1ヶ月間、米俵を担いで軽トラックで配達しながら(笑)、社長から経営を教わる日々を送った29歳の夏、忘れられません。笑

 

 

30歳~これから~  

 

2018年7月8日、晴れて迎えた30代。Welcome to 30代。
一つも後悔のなかった、愛し愛された20代に別れを告げて、30代はより一層、幸せな人生を周りの人たちと送っていければと思います。

 

若手起業家とは呼べない世代に突入しましたが、この10年は仕事もプライベートも、全速力かつ丁寧に進んでいければと思います。そして自分と会社に関わる全ての人をもっと幸せに、社会的インパクトを最大化して、Encounter Japanの企業理念である「最高の仲間と共に、日本とメキシコがより愛される世界を創る」を実現すべく、人生を燃やして行きたいと思います。自分でいうのも何ですが、僕は「人と出逢うセンス」に長けていて、中南米と日本で活躍する20-30代の起業家ではトップランナーだと自覚しています。日に日に深まっていく会社としてのビジョン、個人としての責任と使命感に真っ向から立ち向かえればと思います。

 

7月30日(月)にはEncounter Groupとしての四店舗目となる “GOEN”がグアナファト州レオン市内にオープンします。メキシコで4番目に大きい都市で、日本食レストランと日本食材店を、細部までこだわって創り上げます。店舗規模も過去なく、Encounter Japanとしての最高傑作が出来上がります。ゆくゆくは3階建の建物を全て借りてよりチャレンジしたいと思っています。

 

GOENの料理長のコーヘイさんとシュン

 

 

その他にも、今年も引き続きチャレンジが続きますが、皆様温かく見守って戴けると幸いです。

30代の具体的な抱負や目標は改めて。

30歳になった僕。皆様、期待しててください!そしてこれからも、末永く今後とも宜しくお願い致します。

 

メキシコ人の子達は大半が遅刻のため(笑)、写真にいませんが Encounter Mexicoの集合写真。

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西側 赳史

西側 赳史

持ち味はモロッコの輪投げ屋生活で身につけた度胸と、本場ラテン仕込みのサルサ。株式会社Encounter JapanのCEOです。
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